テキサスの不良オヤジ (ライトニン・ホプキンス)
Lightnin' Hopkins(1912~1982)
戦後カントリー・ブルースのトップアイドル
とにかくカッコイイのである!黒いサングラスに葉巻きをくわえギターを小脇に抱える姿も、ウイスキーのグラスを傍らにドスの聞いたしゃがれた声でスローブルースを唸る姿も、すべてがブルースそのものなのだ。
初めて彼の写真を見た時「おっ、横山やすしやん。」と失礼な印象を持ってしまったが(ある意味共通点も多い)自分がジジイになった時あんなふうに「デヘヘ」とはにかみながらブルースを爪弾けたら最高だろうなと思う今日この頃である。
生まれも育ちもテキサス・ブルース
サミュエル・ホプキンス(本名)は1912年テキサス州センターヴィルに生まれた。10才の頃ブラインド・レモン・ジェファスン (Blind Lemon Jefferson)に出会い彼の付き人兼道案内になる。
少年時代よりテキサス・アレキサンダーの伴奏をつとめていたようで、1946年、34才の時いとこのルシアン・ホプキンスのすすめで初めてのレコーディングが行われるまで時折一緒に仕事をしていたようだ。
レコードデビュー当時はピアノのサンダー・スミスとコンビを組むことが多く、「サンダー(雷)」の名にちなんで「ライトニン(稲妻)」と呼ばれるようになった。「ケティ・メイ・ブルース」のヒットにより、以後カントリー・ブルース界の大スターとなる。
順調に仕事を続けていたライトニンであったがレース・レコード(黒人向け専門のレーベル)の需要低下により1956年を最後にさすがの彼もレコーディングの機会を失うようになる。
1959年、「フォーク・リヴァイバル」ブームに乗りサミュエル・チャーターズに「再発見」されたライトニンは今度は白人聴衆を相手に再び活発に活動を始める。
最初、若い白人聴衆の反応に戸惑いぎみであったが、マイペースでユニークな彼のブルース・スタイルを崩すこと無かった。
彼は大の飛行機嫌いで滅多にツアーを行わなかったが1978年最初で最後の日本公演を行っている。
1982年に癌で亡くなるまで地元ヒューストンを拠点にコンスタントに活動を続け、100枚を超えるアルバムを残した。
ライトニン・ホプキンスのギタースタイル
彼のブルースはわかりやすい。特にロックからさかのぼってきて、ロバート・ジョンソン (Robert Johnson)あたりで「なんじゃ、こりゃ」と思った人は「あっ、これこれ」と思ってしまうだろう。
スタンダードなテキサスのモノトニックベース・スタイルで特別難しいテクニックや複雑なハーモニーは使わない。
なのに、である。彼と似たギターを弾くブルースマンは一人もいない!結果的に彼ほどユニークなギタリストはいない、ということになる。
後年エレキギターを弾いたりスライドギターを弾いたりしているがあまり効果的な使い方はしていない。
たくさんのギタリストとのセッションでもすぐに区別がつく。(浮いている印象さえある。)
ライトニンのギターは何をどうしてもライトニンのギターなのだ!